2007/01
01/28
心の法もなきものを。
松林図屏風
友達のコンサートを錦糸町に聴きに行ったあと、長谷川等伯の松林図屏風公開が今日までだというので国博に寄る。
国宝室の手前で屏風が目に入ったときに、目を疑った。あれは最早絵じゃないだろう……。何者なんだ。
01/27
その一言に、悲惨な全存在を掛けて問うしかない。
赦すということ
AさんがBさんに怒っており、謝罪を求めている。どんな謝罪でもいいのかと聞くと、誠意が感じられないと駄目だという。ここで、Bさんが謝った場合について考えよう。
まず問題になるのは、AさんがBさんを許すのかどうかという点である。これははっきりしている。AさんがBさんの謝罪に誠意を感じるかどうかというただ一点である。
Bさんはどうだろうか。まず、Bさんに誠意があるのかどうかという問題がある。誠意が具体的にどういうものなのか考えるのは難しいが、これはおいておくことにする。
さて、ここで厄介なのは、Bさんに誠意があるかどうかをAさんが「直接」見て判断できるわけではないということだ。つまり、Bさんが誠意を持って謝ったところで、Aさんがその通りに受け取ってくれる確証は無い。Bさんは誠意をそのままAさんに渡すのではなく、何らかの具体的な表出を生み出す。Aさんはそれを受け取り、解釈して、誠意を感じたり感じなかったりする。
AさんがBさんに誠意を感じるかどうかは、実際にBさんが誠意を持っているかどうかだけでなく、Bさんの表現能力とAさんの解釈能力によっても変わってくる。場合によってはBさんが誠意を持っていないのに、Aさんは逆に解釈して許してしまうことも在り得る。場合分けを簡単にするために、ここではAさんの解釈能力を細かく分類するのはやめておこう。
これまでの内容から、次のように場合分けできる。
- Bさんが誠意を持っている場合
- その誠意をAさんが解釈できるようにBさんが表現できる場合
- その誠意をAさんが解釈できるようにBさんが表現できない場合
- Bさんが誠意を持っていない場合
- 誠意が無くともAさんには誠意を感じさせるようにBさんが表現できる場合
- 誠意が無くともAさんには誠意を感じさせるようにBさんが表現できない場合
ここで、Aさんが最終的に誠意を感じてBさんを許すのは、1-1と2-1の場合である。逆に1-2と2-2の場合は、AさんはBさんを許さない。つまりAさんがBさんを許すかどうかという問題は、Bさんに誠意があるかどうかというよりは、そう見えるようにBさんが振舞えるかどうかという問題と言うことができる。
Aさんは、Bさんに誠意が感じられれば許すと言っている。しかし誠意を感じられるかどうかというのは、そう見えるようにBさんが振舞えるかどうかという問題だった。結局Aさんは、誠意あるようにBさんが振舞えるのであれば、Bさんを許すと言っていることになる。
本当にそうだろうか? Aさんは、Bさんが誠意あるように振舞えるかどうかを調べたいがために怒っていたのだろうか?